国事詔書にしたがって、1740年にカール6世の長女マリア・テレジアがハプスブルク家の全領土を相続した。しかし、このことはすぐさま列強の干渉をまねき、オーストリア継承戦争(1740〜48)がはじまった。その結果、マリアの夫フランツ1世が皇帝位をえる一方、オーストリアは経済的にもっとも発展していたボヘミア北部のシェレジエンの大部分をプロイセンにうばわれた。失地回復をねらってマリア・テレジアは七年戦争(1756〜63)をおこすが、失敗におわる。戦後復興のために、オーストリアの行政、財政、教育、法体系の改革などが急速にすすめられた。
マリア・テレジアの息子
ヨーゼフ2世は啓蒙思想に刺激され、1781年、農奴制を廃止した。さらに彼は、信教と表現の自由をもりこんだ寛容令をだした。しかし、ヨーゼフの改革に対する反動も大きかった。彼の弟で後継者のレオポルド2世は、90年に神聖ローマ皇帝となると改革のほとんどを廃止した。マリア・テレジア、ヨーゼフ2世といった啓蒙専制君主の時代に、オーストリアはロシアとプロイセンによるポーランド分割にくわわり、ポーランドの一部を獲得している。
1792
〜1815年の間、ハプスブルク家は、最初にフランス革命、つづいてナポレオン戦争とたえず戦争にまきこまれた。オーストリア領維持のために、レオポルド2世の子フランツ2世は1804年、自身をオーストリア皇帝フランツ1世と称し、つづいて06年、神聖ローマ皇帝位を辞して、ここに神聖ローマ帝国は消滅した。ナポレオン没落後の
1814〜15年のウィーン会議において、オーストリアはベルギーとドイツ南西部の領土をうしなったが、ロンバルディア・ベネチア・イストリア・ダルマティアをえた。宰相メッテルニヒの外交手腕によって、オーストリアは反動的なヨーロッパ新秩序の中心となった。か | |
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フランク王国 |
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アフリカ北西部に住むイスラム教徒。 8世紀にイベリア半島を侵略し、そこに定着したベルベル人とアラブ人の混合民族である。彼らが当時のモーリタニア地方からきたことから、ラテン語でマウリMauri、スペイン語でモロスMoros、英語・オランダ語ではムーアとよばれた(フィリピン南部に住むイスラム教徒に対しても同様に、スペイン人はモロとよんだ)。 今日ではムーア人といえばモロッコ、モーリタニア(フランス語でムーア人の国の意)などアフリカ北西部に住み、イスラム教徒でアラビア語を話す人々全体をさす。 ムーア人が人口の8割を占めるモーリタニア国民をさすこともある。 ムーア人が黒人だという観念は、シェークスピアの戯曲『オセロ』によって誤って広められたもので、ムーア人は人種的にはコーカソイドの地中海集団に属する。 (小学館の百科事典(ポケット版)を参考にしました。) シューベルトの歌劇『フィエラブラス』 |
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