(人名辞典) |
家族 |
友人 | 先生 | その他 |
イェンガー Jenger, Johann Baptist
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友人。シュタイアーマルク音楽協会の有力なメンバー 1827年のグラーツへの旅に同行している。パハラー家のシューベルティアーデでは連弾を楽しむなどの記録がある。 |
ヴァルヒャー Walcher, Ferdinand 1799-? |
親友。下部オーストリア生まれ。宮廷軍事会議勤務の官吏。1827年5月5日、任地ベネチアに赴任するさい、シューベルトからピアノ曲を献呈された。アマチュアのテナー・バリトン歌手。 |
ウェーバー
Weber、Carl Maria von 1786−1826 |
ドイツの作曲家・ピアニスト・指揮者。作品を通じてドイツ音楽にロマン主義思潮をもちこんだ。 リューベック近郊のオイティンに生まれる。巡回劇団を主宰する父について生活の場を転々とかえるが、10歳のとき、巡業先のザルツブルクでハイドンの弟ミヒャエル・ハイドンにまなんだ。11歳で最初のオペラを書き(焼失)、13歳で書いた2作目のオペラは劇場で上演された。1804年から約2年間ブレスラウの歌劇場の指揮者をつとめたが、その後ドイツ各地を遍歴。13〜16年にはプラハ歌劇場の芸術監督として劇場の改革に尽力するが、失敗し辞任。 1817年、ザクセン宮廷の楽長に任命され、自作のドイツ・オペラをもって、当時の宮廷で絶対的優勢であったイタリア・オペラ派の人々とたたかい、ドイツ・オペラを根づかせることに成功する。また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で公演した。 ウェーバーの名声は主として3作のオペラ、「魔弾の射手」(1821)、「オイリアンテ」(1823)、「オベロン」(1826)に由来する。ドイツの民話にもとづく「魔弾の射手」は伝説と超自然的要素をとりいれ、ドイツ・ロマン派のオペラ様式を確立した。 「オベロン」はロンドンのコベント・ガーデン歌劇場の依頼によって書かれた英語のリブレットによるオペラである。この作曲のために、ウェーバーはとりいそぎ英語をまなび、作品が完成すると病苦をおして渡英、自らの指揮で初演した。その後まもなく、1826年6月5日にロンドンにて客死。 ウェーバーのオペラにみられる革新的な手法のひとつは、ライトモティーフの使用である。「オイリアンテ」では、せりふで筋をはこぶそれまでのドイツ・オペラの慣習にかわってレチタティーボ(叙唱)をもちい、音楽がとぎれることなくつづくようにした。これらはかがやかしく色彩的な管弦楽法とともに、ワーグナーに強い影響をあたえた。 作品にはほかに、2曲の交響曲、歌曲、ピアノ協奏曲、クラリネット協奏曲、カンタータ、ミサ曲、名高い「舞踏への勧誘」(1819)をはじめとするピアノ曲などがある。 Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2002. (C) 1993-2001 Microsoft Corporation. All rights reserved. シューベルトは、1822年にウィーンで『魔弾の射手』の上演の機にウェーバーに会っている。ウェーバーは、『アルフォンソとエストレルラ』を認め、ドレスデンで上演することを約束したが、果たされなかった。ウェーバーの『オイリアンテ』上演をめぐっての感情の行き違いによるものと考えられている。 |
ヴォジーシェク Worzuischek, Johann Hugo 1791-1825 |
チェコのピアニスト・作曲家。シューベルトと交友があった。 1822年に即興曲を出版している。シューベルトのそれに先駆けている。 |
クーペルヴィーザー (ヨゼフ) Kupelwieser, Joseh 1791-1866 |
シューベルトの友人レオポルド・クーペルヴィーザーの兄。作家。 ケルントナートア劇場の帝立王立宮廷劇場書記(1823年当時)をつとめていた頃、シューベルトにドイツ・オペラ『フィエラブラス』の作曲を依頼する。台本は自ら担当した。 |
クーペルヴィーザー (レオポルド) Kupelwieser, Leopold 1796-1862 |
シューベルトの親友。ナザレ派の画家。 シューベルトはクーペルヴィーザーに自分の病気のことを告白している。 |
コラー(ヨゼフィーネ) Koller,Josephine von) 181−1874 |
シュタイヤの商人の娘。歌手でピアニスト。彼女の家はつねにシューベルトを歓待した。
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サリエリ
Salieri, Antonio 1750-1825 |
作曲家。宮廷楽長。シューベルトに対位法のレッスンをする。モーツァルトとのエピソードは有名。ベートーヴェンの指導をしたこともある。
(映画「アマデウス」を参考にご覧になるのも宮廷楽長のイメージを知るのによいかもしれません。ただし、人物像はかなり脚色されていますのでご注意ください。) |
Stadller, Albert 1794-1888 |
上部オーストリアのシュタイヤ出身の官吏。シューベルトの作品を数多く筆写して、散逸を防ぐ。 |
シュパウン
Spaun, Josef von 1788-1865 |
シューベルトの10歳年長の親友。
よき理解者だった。リンツ出身。法科を出た。 1808年、コンビィクトで知り合う。金持ちで気前がよく、生涯の交友があった。コンビィクトでは学生オーケストラを組織した(高い評価を受けていた)。 シューベルトの作品を見てもらうため、ゲーテに手紙を書くなど、尽力した。 |
Schwind, Moritz von 1804-1871
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画家。1820年頃からシューベルトと親交があった。 |
シューベルト(イグナーツ)
Schubert, Ignaz 1785-1844 |
長兄。教師。父の死後、ロッサウの小学校の経営を引き継いだ。
シューベルトにピアノの手ほどきをする。家庭内の演奏会では第2バイオリンを担当した記録がある。 |
シューベルト(フェルディナンド)
Schubert, Ferdinand 1794-1859 |
テオドールの第11子、六男。3歳年下の弟に最も影響力を持ったよき導き手。シューベルト同様、父からバイオリンの手ほどきを受け、ホルツァーについた。ヨーゼフ・ドレスラーに作曲を学んだ。オルガニスト、合唱指揮、声楽家(テノール)、バイオリニストとして高い技量を示した。ウィーン教会学校のオルガン科の教授を勤めた。父親に忠実に教師としての仕事を引き継ぎ、教頭や校長も勤めた。
「レクイエム」ト短調(作品9)などを作曲している。 家庭内音楽会では、第1バイオリンを弾いた。シューベルトのバイオリンのための小協奏曲D345や、ロンドD438はフェルディナンドのために書かれたらしい。 シューベルトの死後は弟の作品の評価を高めるべく、あらゆる努力をした。 |
シューベルト(フランツ・テオドール)
Schubert, Franz Theodor 1763-1830 |
父。教師。実父の相続分から校舎を購入し、数人の教師を雇い入れ、学校を経営した。公的な扶助は若干受けていたが、生徒の授業料により経費をまかなっていた。貧しい家庭からは授業とらないことが評判を呼び、200人を超える生徒を集めた。1817年にロッサウの学校からの招聘に応じ、小学校の経営をした。
シューベルトに弦楽奏法を手ほどきし、自らチェロを弾いた。モーツァルトの「プラハ」交響曲を編曲し(1793-94)、家庭内演奏会で弾いた記録もある。 |
ショーバー
1796-1882
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シュパウンを通してシューベルトの作品を知った。自らコンビィクトに出向き、シューベルトと知り合いになる。放縦な性格で、しろうと臭いところのある人物であったが、シューベルトの無二の親友となる。 |
バウエルンフェルト Bauernfelt, Eduard von 1802-1890 |
作家。ブルク劇場の喜劇作家として成功した。シェイクスピアやディケンズの翻訳を手がけた。 1822年1月21日、当時哲学生だった20歳のバウエルンフェルトは、シュヴィントに連れられ、シューベルティアーデでシューベルトに出う。それから3人は固い友情で結ばれた。 シューベルトはバウエルンフェルトの『グライヒェン伯爵』に作曲するが、未完に終わっている。 |
パウムガルトナー
Paumgartner, S(ジルベスター)
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上部オーストリア地方シュタイヤのの鉱山長官で、自身でチェロを弾く音楽愛好家。自宅のサロンでよくコンサートを開いていた。
シューベルトはフォーグルとともにシュタイヤに滞在したとき、パウムガルトナー家に何度も訪問している。ピアノ五重奏曲『ます』はパウムガルトナーの委嘱で作曲された。(1819年) |
ハートヴィッヒ
Hatwig, Otto 1766〜? |
ボヘミア生まれの音楽家。ブルク劇場のオーケストラのヴァイオリン奏者。ピアノとヴァイオリンの教師でもあった。シューベルトの交響曲第4番〜6番を私的な演奏会で演奏した記録がある。 |
パハラー Pachler Marie
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グラーツの名流婦人。ベートーヴェンとも交流があり、自分自身優れたピアノの腕前を持っていた。 1827年シューベルトを自宅へ招待し、シューベルティアーデを催す。シ |
ヒュッテンブレンナー(ヨゼフ)
Huttenbrenner, Josef 1796-1882 |
官吏で、シューベルトの友人。シューベルトの作品を収集・保存して作品の普及に貢献した。
1817年シューベルトと知り合う。 シューベルトの初期のリート集の出版の世話をする。 1822年と23年にはシューベルトの秘書役を務め、金銭関係を管理した。 ウェーバーに、歌劇「アルフォンソとエストレルラ」D732上演働きかけ、ある程度成功した。 シューベルトの死後、散逸したリートを集めたり、自ら写譜したりし、約100曲の手書き原稿を集めた。 シューベルトとほぼ同い年で、彼の前でシューベルトは気ままに振舞っていたらしい。 「1818年2月21日、シューベルトは(『ます』の)第4番目の手稿を友人アドラートゥス・ヨーゼフ・ヒュッテンブエンナーに捧げている。シューベルトは平常むしろ彼を冷遇し、この友人に対するシューベルトの振る舞いについて、彼はよく暴君といわれた。「だけど彼には僕のすべてが気に入っているんだよ!」と、シューベルトが言ったと伝えられている。」(ディスカウp164) 「音楽のディレッタント、アマチュアながらも歌が上手で、どこか変わり者という風情を残している人物。」「自らを『シューベルトの預言者、歌手、友人、弟子』であると称していた。」(エルンスト・ヒルマーp94) シューベルトの死後30年ほどしての回想記は、数多くの矛盾が見られるため、ドイッチュは、「事細かなことは信用しなかった」と述べている。(エルンスト・ヒルマーp95) |
ヒュッテンブレンナー(アンゼルム)
Huttenbrenner, Anselm 1794-1868
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グラーツの出身。ヨゼフの兄。作曲家。1815-19、サリエリに師事する。その間にシューベルト、ベートーヴェンに出会う。25-39年、シュタイアーマルク音楽協会の指揮者。会長もつとめたことがある。シューベルトについて多くを書き残している。
未完成交響曲にかかわる。 作品にはオペラ7、交響曲8、ミサ曲10、レクイエム4、多数の男声合唱曲、男声四唱曲、歌曲がある。 |
フォーグル
Vorgl, Johann Michael 1768-1840 |
エンスドルフ(シュタイヤ付近)出身。歌手(バリトン)。ウィーン大学で法律を学ぶ。1794年、友人のジュスマイヤーの勧めでウィーン宮廷歌劇場歌手となる。1822年までつとめる。
1817年にシューベルトに出会い、シューベルトの歌曲を広めるのに貢献した。シューベルトを伴い、3回の演奏旅行をしている。 |
ヘルメスベルガー Hellmesberger, Georg 1800.4.24-1873.816
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バイオリン奏者、指揮者。 ウィーン音楽院でJ.ベームに学び、1821年にウィーン音楽院助手となる。33年から67年には教授を務め、てヨアヒムをはじめ多くのバイオリニストを育てた。二人の息子も教え、名バイオリニストに育てる。 宮廷歌劇場のコンサートマスターや指揮者もつとめた。 シューベルトと1810から1812年の間、宮廷少年合唱団員としてコンビィクトで一緒だった。ヘルメスベルガーはウィーン楽友協会関連の「イブニングコンサート」の常連の出演者だった。その頃、シューベルトの声楽作品も演奏されており、彼の弦楽四重奏団に演奏してもらおうと作曲をしようと意図したという推測もある。 ゲオルグの息子、ヨーゼフ(1828-1893)は、ウィーン音楽院教授、院長、ウィーン楽友協会指揮者、宮廷歌劇場コンサートマスター、宮廷楽長を務めた。また、ヘルメスベルガー弦楽四重奏団を組織し、ベートーヴェン、シューベルトの演奏に優れていた。シューベルトの弦楽四重奏曲の多くの初演を行っている。 ヨーゼフの息子、ヨーゼフ(1855-1907)もまた名バイオリン奏者であり、指揮者、作曲者でもあった。ウィーン音楽院教授、宮廷歌劇場コンサートマスター指揮者。父の四重奏団の第2バイオリン奏者をつとめ、のちに第1バイオリン奏者になる。弟のフェルディナンドはチェロ奏者としてヘルメスベルガー弦楽四重奏団に加わる。ウィーン・フォルクス・オーパーの指揮者。 ウィーン・フィルハーモニーの第5代コンサートマスター。 |
ホルツァー
Holzer, Michael 1772-1826 |
リヒテンタール教区教会オルガニスト(聖歌隊指揮者)。シューベルトにヴィオラ、オルガン、声楽、通奏低音を教える。(文献によってはヴァイオリン、ピアノ、歌唱法、和声学等音楽全般の基礎教育とある) |
マイアーホーファー
1787-1836
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シューベルトの親友。コンビィクト(法科)の出身。シュパウンを介してシューベルトと知り合う。才能のある詩人。オーストリアの官庁に勤めていたがうつ病がひどくなり、自殺をした。 |
ルジチュカ
Ruzicka、Venzel 1758−1823 |
宮廷オルガにスト。優れた音楽家で、コンヴィクトでシューベルトの指導担当をする。 |
リーベンベルク | ピアニスト。フンメルの弟子だった。裕福な年金生活をしていた貴族。シューベルトに1822年、「さすらい人」幻想曲の作曲を依頼し、出版の世話もした。 |