西暦 | 年齢 |
事項 |
主な作品 | 参考 | ||||||||||||||
1797 | 0 | 1月31日生 。父、フランツ・テオドールと、母、マリー・エリザベートの第12子。ウィーン郊外リヒテンタール教区ヒンメルプフフォルトグルント地区に生家。 |
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1798 | 1 | |||||||||||||||||
1799 | 2 | |||||||||||||||||
1800 | 3 | |||||||||||||||||
1801 | 4 | 父の学校の生徒が増えたため、ゾレインガッセに転居。 |
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1802 | 5 | |||||||||||||||||
1803 | 6 | 父親の学校に入学。父親からバイオリンをはじめとする弦楽奏法を教わる。長兄イグナーツからピアノを学ぶ。 | ||||||||||||||||
1804 | 7 | ホルツァーに音楽の基礎教育を受ける。協会合唱団で歌う。 |
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1808 | 11 | 宮廷礼拝堂合唱児童に採用され、コンヴィクトに入学。 ルジチュカに指導を受ける。 シュパウンと交流を持つ。 |
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1809 | 12 | シュパウン、任官してウィーンを去る。 |
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1810 | 13 | 現存する最も初期の作品が作曲される。 |
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1811 | 14 | シュパウンウィーンに戻る。交響曲の初の試み、初の歌劇、初めての弦楽四重奏曲が作曲される。 |
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1812 | 15 | 変声期を迎え、7月に宮廷礼拝堂合唱隊を除隊。母没。サリエリのレッスンを受ける。 |
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1813 | 16 | ウィーン近郊の商人の娘 Anna Kleyenboeck(1783-1860)と父再婚。
聖アンナ師範学校に通う。 |
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1814 | 17 | 師範学校の教職課程を修了し、父の学校の助教員となる。ミサ曲ヘ長調D105が、シューベルトの指揮でリヒテンタール協会で初演される。マイヤーホーファーと知り合う。 |
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1815 | 18 | ショーバーと知り合う。『野ばら』(D257)、『魔王』(D328)など、シューベルトの代表作となる優れた楽曲が多数作曲される。 |
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1816 | 19 | ライバッハの教職を志願したが、失敗する。シュパウンが、シューベルトがゲーテの詩に作曲した歌曲をゲーテに送る。しかし、黙殺された。 |
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1817 | 20 | フォーグルと知り合う。 |
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1818 | 21 | 初めての作品が出版物に掲載。『イタリア風序曲』(D590)がローマ皇帝館で公開演奏される。 |
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1819 | 22 | 『羊飼いの嘆きの歌』(D121)が公開演奏される。シュビントとの交流が始まる。 |
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1820 | 23 | 歌劇『双子』(D647)、劇音楽『魔法の竪琴』(D644)が上演される。 |
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1821 | 24 | 初出版(『魔王』)。「シューベルティアーデ」という言葉が使われ始める。 |
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1822 | 25 | ウェーバーに会う。未完成交響曲(D759)を作曲する。 |
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1823 | 26 | 健康がすぐれず入院する。劇音楽『ロザムンデ』が上演される。 |
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1824 | 27 | かなり健康を取り戻す。 |
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1825 | 28 | シューベルティアーデが盛んに催される。肖像画が売り出される。 |
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1826 | 29 | シュパウン家で大規模なシューベルティアーデが催される。 |
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1827 | 30 | ベートーヴェンを病床に見舞う。ベートーヴェンの葬送にあたり、葬列の松明もちに加わる。 |
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1828 | 31 | 交響曲第8番『グレート』を完成し、ウィーン楽友協会に渡す。初めての自作演奏会を催す。演奏会は大成功する。11月19日、腸チフスのために死去。 |
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