ワインガルトナー編曲のスケッチ ホ長調
ヨアヒム編曲大二重奏曲
ガシュタイン交響曲として編曲された
作曲 | 1816年9月〜10月3日(19才) |
初演 | 1841年10月17日、ウィーンのヨーゼフシュタット劇場 |
編成 | Fl,Ob2,Fg2,Hr2,弦楽5部 |
上記の初演の記録は公式なもので、実際にはハートヴィッヒが指揮をする、ショッテンホーフのハートヴィッヒ邸の家庭演奏会で初演されたようだ。チャールズ・オズボーンの著書にはオーケストラの様子が次のように書かれている。
「オーケストラはシューベルトの私的な弦楽四重奏団を拡大した愛好家の集まりで、彼自身はヴィオラを担当した。」(p71) 「少人数のオーケストラだったので、シューベルトはトランペットと太鼓を使うことを諦めた。」(p70-71) シューベルトの交響曲の中では、確かに一番小さい編成の交響曲となっている。モーツァルトの有名なK550のト短調交響曲のオリジナルな編成(モーツァルトは後でクラリネットを書き足した)と同じ編成であることを指摘する人もいる(アインシュタイン、p168)。 残念ながら、私の持つ資料ではそれ以上の詳しい状況がわからない。シューベルトの家庭でも家庭内音楽会でモーツァルトの交響曲の編曲などを演奏している記録があるようだから、このシューベルトの交響曲の演奏も当時の音楽の楽しみ方のあり方のひとつだったことと予想する。 モーツァルトや、ハイドンの影響を指摘する解説がとても多い。特に、第3楽章では、モーツァルトのト短調交響曲が「シューベルトの心の中に”こだま”していた可能性は強い。」(作曲家別名曲解説ライブラリーp38)などと、考える人も多いようだ。確かに、調性も同じで、楽譜面ではファースト・ヴァイオリンが、最初の弱拍と1小節目はまったく同じ音符になっている。 しかし、作曲のアイディアも異なるし、トリオの持っている気分も違う。このようなアナロジーでこの交響曲のイメージを固めてしまうのは、私個人としてはつまらないことだと思っている。 シューベルトの交響曲の中では、比較的演奏される頻度も高いもののように思われる。私自身もアマチュアオーケストラで、過去20年ほどの間に2回演奏したことがある。 シューベルトはこの交響曲を作曲した1816年の秋には、自分の実家をはなれ、ショーバーの下宿の居候となる。これまで続けた補助教員生活に区切りをつけて、音楽家として身を立てようという時期に作曲されたことに注目する解説もある。(作曲家別名曲解説ライブラリーp19) |
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第1楽章 Allegro 変ロ長調 2分の2拍子4小節の管楽器の導入から、ヴァイオリンの旋律が楽しく、美しく始まります。低弦楽器が追いかけるように奏するのもまた楽しい感じです。この第1主題は全奏で盛り上がりを見せます。 次にはかわいらしい感じの第2主題が弦楽で提示され、管楽器が合いの手を入れます。同じメロディを管楽器が奏し、ヴァイオリンに応えます。そして第1主題の雰囲気を感じさせる響きの中に終結していきます。 展開部は冒頭の導入のような音形をもとに転調を重ねて進み、提示部の終結部のところであらわれた動機をもとに大きなクライマックスを築きます。そしてその高まりが落ち着くと、最初のメロディが開始され、再現部となります。 再現部は、ほぼ提示部と同じ形で進みます。 簡潔なつくりを持った、伸びやかな楽想の素敵な楽章です。(演奏) 第2楽章 Andante con moto 変ホ長調 8分の6拍子第3楽章 Menuetto Allegro molto ト短調 4分の3拍子第4楽章 Allegro vivace 変ロ長調 4分の2拍子楽章をクリックすると音を聞くことができます。 2〜4楽章のmidiのデータは斉藤様よりいただきました。第1楽章は自作です。 |
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備考 |
作曲 | 1822年10月30日(着手) |
初演 | 1865年12月17日、ヨハン・ヘルベック(発見者)指揮。ウィーン・ムジークフェラインザール |
編成 | Fl2,Ob2,Cl2,Fg2,Hr2,Tp2,Tb3,Tim,弦楽5部 |
オーケストラの総譜は、1,2楽章と、3楽章の20小節までが残されている。ピアノスケッチは3楽章の130小説まで残っている。
未完成に終わったいきさつについては、多くの議論がある。1818年以降には、他の楽曲においても未完成である作品が多いので、シューベルトの作曲の習慣上、未完成であることはあまり大きな意義をもたないと考えられる。 自筆譜の伝承については、次のような経緯が一般的によく知られている。 シューベルトは1・2楽章と3楽章の20小節までをオーケストレーションしたところで、いったん作曲を中断した。その後、1823年4月になって、グラーツのシュタイアーマルク音楽協会に名誉会員として迎えられることが決まり、その返礼としてこの交響曲を完成させおくることを思いついた。 しかし、シューベルトが、実際にシュタイアーマルク音楽協会に自筆を送ったのは、1824年になってしまった。その時仲介役として自筆譜を受け取ったアンゼルム・ヒッテンブレンナーは、自筆譜が2楽章しかなかったので、残りの楽章が届くのを待つことにした。そのうちに存在が忘れられてしまった。 1865年5月、指揮者のヘルベックが自筆譜を発見し、12月17日に初演した。 エルンスト・ヒルマー著「シューベルト」によると、シュタイアーマルク音楽協会への推挙とこの交響曲を関連付ける明確な証拠が見当たらないと述べている。シュタイアーマルク音楽協会との関連を示す唯一の資料である、1823年7月20日付のシューベルトの手紙は、ヨゼフ・ヒュッテンブレンナーの画策による駆け引きのためにかかれたものであるという(p69)。交響曲の献呈は、最高級の感謝のメッセージであったから、同年同じく名誉会員の推挙を受けたリンツの音楽協会、1821年からさまざまな恩恵を受けていたシューベルトの地元のウィーン楽友協会の手前、グラーツの音楽協会(シュタイアーマルク音楽協会)にだけこのような返礼をするというのは不自然であるという。 エルンスト・ヒルマーは、献呈はヒュッテンブレンナー兄弟に対して名誉会員推挙に対する感謝の印として行われた事を述べている。 また、この交響曲の作曲が中断されたのは、3楽章の作曲の途中に、実入りのよい仕事(「さすらい人」幻想曲D760の作曲)が入ったためであるという。エマヌエール・カール・エードラー・フォン・リーベンベルク・ド・ジッティンという人物が、シューベルトに作曲報酬を払った上に、出版の世話までしたらしいのである。 |
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第1楽章 Allegro moderato h-moll 4分の3拍子ソナタ形式で書かれている。 冒頭にチェロ・コントラバスによる序奏がおかれる。このテーマは第1楽章全体の統一テーマの性質を持っている。 次に第1主題が、弦楽器のさざなみのような伴奏にのって、オーボエとクラリネットによって提示される。徐々に音楽が高揚した後、全奏のカデンツで流れは中断される。 ホルンとファゴットの導きに続いてチェロにより第2主題が叙情的に提示される。主題はバイオリンに引き継がれた後、突然断ち切られ、第2主題の断片をもとに劇的に展開されていく。提示部は木管楽器のロングトーンの中に弦楽器のピチカートのとつとつとした下降によって静かに締めくくられる。 展開部はきわめて静寂な中に始まり、次第に高揚してゆき、激しいクライマックスをむかえる。 しばらく続いた高揚がおさまると再現部となる。 コーダは、序奏を元に、ため息をつくような表現を繰り返し、全体を閉じる。 (なお、ここで用いたテーマのハイパーリンクの音源は、私の所属したアマチュアオーケストラの演奏によるものです。) 2002/2/2 sotome 第2楽章 Andante con moto E-dur 8分の3拍子展開部のないソナタ形式という矛盾した名称で呼ばれるタイプの二部形式をとる。この楽章にも第1楽章の冒頭主題に含まれるモティーフがさまざまな部分に影を落とし、第1楽章との統一感をもたらす。この楽章は、シューベルトの書いた最も美しいページのひとつと言え、比較を絶するほど深い叙情の世界がある。(POLYDOR,POCG-2088のCDの解説書より、小林宗生) 第3楽章 Allegro (Scherzo)(未完成) |
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備考 |
作曲 | 1825年〜26年(28才) | ||||
初演 | 1839年3月21日、ライプツィヒ・ゲバントハウス(メンデルスゾーン指揮) | ||||
編成 | Fl2,Ob2,Cl2,Fg2,Hr2,Tp2,Tb3,Timp.,弦楽5部 | ||||
大交響曲の成立シューベルトの生涯の後期は、規模の大きな作品を書くことを目指すようになってきました。 1824年には、3月31日付のクーペルヴィーザーあての手紙 で次のように述べています。 「リードのほうでは、あまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみたよ。ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲 を2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きなシンフォニー(交響曲)への道 を切り開いていこうと思っている」(実吉晴夫・訳『シューベルトの手紙』p134) 大きな交響曲に意欲を持ったシューベルトは、1825年3月にこの交響曲の作曲に着手します。5月から10月にかけてのグムンデン、ガスタイン方面への旅行をはさみ、1828年に は完成されました。 大交響曲の忘却・再発見1827年に、シューベルトはウィーン楽友協会の代議員に選出されます。そしてこの交響曲を協会に献呈されました。パート譜も作成され、演奏が試みられたようですが、演奏が困難なため公の場で演奏されることはありませんでした。 その後、この交響曲は人々から忘れ去られてしましますが、シューベルトの死後10年ほどして(1838年)シューマンによって再発見されます。シューマンはウィーンのヴェーリング墓地にベートーヴェンとシューベルトの墓参りの帰り道シューベルトの兄フェルディナンドに会い、この交響曲の存在を知ることになりました。 「彼(フェルディナンド)はフランツ・シューベルトの作品のうちでまだ彼の手許にあった宝を僕に見せてくれた。そこにうず高く積んであった作品を見て僕は喜びにふるえた。(中略)交響曲のスコアいくつかを見せてもらったけれども、その多くは一度も演奏されたことのないもので、時々手をつける人もいたが、むずかしすぎるとか誇張がひどいとかいってすてられたものだった。」(シューマン著・吉田秀和訳『音楽と音楽家』p144) 発見されたこの交響曲は、1839年にメンデルスゾーン指揮によってライプツィヒ・ゲバントハウスで初演されます。 『グレート』の名称さて、表題の「グレート」ですが、これは、同じくハ長調で書かれた第6番の比較的小さな交響曲に対しての呼び名でしてた。内容的にも威容のある作品なのでこの呼び方が定着したようです。『大交響曲』と訳されることが多いです。 幻の『グムンデン・ガスタイン交響曲』ところで、この作品の自筆譜には、作曲の年月日が1828年3月とあります。そのためシューベルトの死の年の1828年に作曲されたと考えられていました。一方、先に述べた1825年の旅行のさいの友人たちにあてた手紙には大きな交響曲の作曲が述べられているにもかかわらず、この時期の交響曲は発見されていませんでした。そこで、紛失された『グムンデン・ガスタイン交響曲』D849としてシューベルトの作曲リストに載せられました。名バイオリニスト、ヨアヒムはピアノ連弾用の大ソナタがこの交響曲のスケッチではないかという当時の推測にのっとってこの作品を編曲した管弦楽作品を発表しています。 しかし、近年の優れた音楽研究により、五線紙や、シューベルトの筆跡研究、作曲様式研究などからこの『グレート』が『グムンデン・ガスタイン交響曲』であることが判明しました。自筆譜の日付も、実は何者かが5を8に別のインクで書き直したことがわかりました。 7番、8番、9番?この交響曲の通し番号は、古くは、7番とされていました。有名な未完成交響曲の再発見と、ホ短調の交響曲の全楽章にわたるスケッチの発見で9番となりました(未完成が8番、スケッチが7番)。現在では、1963年から始まったシューベルト協会の編纂する新シューベルト全集カタログでは、これまで7番とされた交響曲のスケッチが交響曲のリストからはずされ、この『グレート』は8番目の交響曲となりました。 |
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第1楽章 Andante 4分の4拍子− Allegro ma non troppo 2分の2拍子 ハ長調ソナタ形式。アンダンテの序奏がついています。 2本のホルンのユニゾンでテーマが提示されます。 テーマは管楽器で歌われた後、チェロとビオラで美しく引き継がれます。テーマは鏡に写してひっくり返したような旋律線です。(演奏) 再び、テーマが力強く奏され、発展してゆき、バイオリンの3連譜音型にのりながら気分は高揚し、主題提示部に入っていきます。 大胆な動きの第1主題が提示されます。 第1主題は強い調子のまま、一気に突き進みます。 続く第2主題は、属調の平行調であるイ短調で弦楽器の伴奏にのり、オーボエとファゴットで提示されます。(演奏) さらに第3主題がトロンボーンによって現れます。(演奏) 展開部は第1主題と第2主題をもとに発展していきます。第2主題に、第1主題のリズムが乗り転調を重ねてゆきます。弦楽器の3連符にのせて第3主題が短縮された形で強奏される部分をはさんで、静けさの中で弦による第3主題と、管楽器の掛け合いの経過句をへて再現部へ移ります。 再現部は第1主題が弱奏で現れます。だんだん強さを増してゆき、第2主題となります。第2主題は、ハ短調で示されます。第3主題も順当に現れ、コーダにつながります。 コーダはPiu motoで、テンポを増し、壮大な盛り上がりを作り、堂々と楽章を閉じます。 第2楽章 Andante con moto イ短調 4分の2拍子主に2つの旋律からできており、ABABAという5つの部分からなる大きな歌謡形式になっています。 まず、弦楽器の8分音符のきざみの伴奏にのり、チェロとコントラバスがとつとつとした旋律を奏でます。そしてすぐあとには、オーボエがひなびた旋律を美しく吹きだします。(Aの主題、演奏) 旋律は、短調や長調の響きを交互に織り交ぜながら、そしてときには全合奏でもりあがりながら進んでゆきます。 第2主題は、第2バイオリンのだんだん下りてくる音型で美しく優美にはじまります。(演奏) 弦楽器と管楽器が巧みに交代し合い、曲は進んでゆきますが、第2主題の終わりの部分には特筆する部分があります。吉田秀和氏の著書から引用しましょう。 『この曲がもっている「宝」のすべてを、数えつくすことは、とてもできない。(略)つぎに来るアンダンテコンモートに一言もふれないで、この曲を読者の手に渡すことなどどんなことがあってもできない相談だからだ。 (略)弦楽器がppから、さらに、dim.、dim.と小さく、小さく息を殺していって、そっと和音をならす、その和音の柱の中間に、小節の弱拍ごとに、ホルンがg音を8回ならしたあと、9回目に、静かに微妙なクレッシェンドをはさみながらf音を経てe音までおりてくる。 シューマンが「全楽器が息をのんで沈黙している間を、ホルンが天の使いのようにおりてくる」とよんだのは、ここである。これは、音楽の歴史の中でも、本当にまれにしかおこらなかった至高の「静けさ」の瞬間である。』(吉田秀和著『私の好きな曲』p66-67)(演奏) とてもすばらしい場所です。(midiではあまりいい雰囲気が出ません。CDなどでどうぞお聞きください。) さて、この曲はこのあと、第1主題がもどります。第1主題の終わりには、ブルックナーをおもわせるような息をのむゲネラルパウゼ(全合奏停止)があります。ためいきのようなチェロの旋律をはさみ、第2主題につながります。 さらに第2主題は、イ長調に変わり、伴奏も弦楽器の16部音符の流れるような動きのあるものになります。 最後に第1主題がコーダのように提示され、おしまいは静かに閉じます。 ところで私は、この楽章がピアノ三重奏曲第2番の第2楽章ととても関連があるようにあると思っています。後日、論じられればと思います。
第3楽章 Scherzo Allegro vivace ハ長調 4分の3拍子第4楽章 Finale Allegro vivace ハ長調 4分の2拍子 |
シューベルトの時代に生きた主な作曲家の交響曲の作曲年代
シューベルト | ハイドン | ベートーヴェン | メンデルスゾーン | ||
1797 | 最後の交響曲第104番は1795に作曲 | ||||
1798 | |||||
1799 | 第1番ハ長調(〜1800) | ||||
1800 | 第2番ニ長調(〜01) | ||||
1801 | |||||
1802 | |||||
1803 | 第3番変ホ長調『英雄』(〜04) | ||||
1804 | |||||
1805 | |||||
1806 | 第4番変ロ長調 | ||||
1807 | 第5番ハ短調『運命』(〜08) | ||||
1808 | 第6番ヘ長調『田園』 | ||||
1809 | (没) | (生) | |||
1810 | |||||
1811 | 第7番イ長調(〜13) | ||||
1812 | 第8番ヘ長調 | ||||
1813 | 第1番ニ長調D82 | ||||
1814 | 第2番変ロ長調D125 | ||||
1815 | 第3番ニ長調D200 | ||||
1816 |
第4番ハ短調D417 第5番変ロ長調D485 |
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1817 | 第6番ハ長調D589 | ||||
1818 | |||||
1819 | |||||
1820 | |||||
1821 | シンフォニア第1〜6番 | ||||
1822 | 第7番ロ短調D759『未完成』 | 第9番ニ短調『合唱』(〜24) | シンフォニア第7〜8番 | ||
1823 | シンフォニア第9〜12番 | ||||
1824 | 第1番ハ短調 | ||||
1825 | 第8番ハ長調D944『グレート』(〜26) | ||||
1826 | |||||
1827 | (没) | ||||
1828 |